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ひびのいろいろ

オウム真理教の子ども達

1995年3月20日の朝、私は大学生だった。田舎のアパートで、テレビをぼんやりと眺めていた。 画面には地下鉄サリン事件のニュースが流れ続け、「サティアン」や「ヘッドギア」といった、それまで見たこともないような異様な光景が延々と映し出されていた。

本書は、NHK「クローズアップ現代」取材班が2025年3月に放送した番組を底本に、放送に入りきらなかった証言や資料を大幅に加筆して刊行されたものだ。 地下鉄サリン事件後、山梨県旧・上九一色村の教団施設から保護された子どもたちが、30年の時を経てどのような人生を歩んできたか。当事者への直接取材と、児童相談所の記録約2800点をもとに描き出している。

証言者のひとりは「ずっと隠すことに一生懸命になってきたので、自分が何をどうやって発信すればいいのかわからない」と語る。

「だって子どもだったし」という言葉の前で

ある当事者は、「だって子どもだったし」という言葉を自分の心の中の免罪符として言い聞かせながら生きてきたという。本人は「この言葉をご遺族には聞かせられない」とも述べていたという。もちろん、子供には責任はない。責任を負うべきは、事件を起こした大人であり、教団の行動なのだ。

選択肢がほとんど存在しない環境の中で、子どもは適応するために何にでも従う。従うこと自体が生存戦略であり、それを犯罪への「加担」と呼ぶのはあまりにも無理がある。ただ同時に、「ご遺族には聞かせられない」という感覚が30年後も残っているという事実は重い。罪悪感が内在化されているということは、たとえそれが誤った罪悪感であっても、心身に深く染みついてしまっているということだ。これは私の臨床の場でもしばしば出会う光景であり、安易に、あるいは軽々と否定することなど到底できない。

自分の人生の土台にある記憶が、ある日「あれは嘘だった」と告げられる。それがどういう体験なのか、私には想像する手がかりすら乏しい。

このような証言は、まさに自身の体験を外傷体験として捉えているからこそのものだろう。本来なら心理的援助が強く必要な人たちなのだろう。そして犯罪加害者の家族支援の臨床ともつながるのかなと考えている。しかし精神科的には、まだまだ未開の領域だ。。ありがとうございます。だからこそ、このような罪悪感や自己否定感を修復するのは非常に難しいが、今後私たちは取り組まなければいけない問題なのかなというふうにも考えている。

記録されなかった子どもたち

事件後、多くの子どもたちが一度に保護されたにもかかわらず、国による支援の研究はわずか2年で終わったという。 当時は「宗教虐待」という概念が社会に存在していなかった時代であり、現場の対応が手探りであったことは想像に難くない。

しかし、2022年に阿部元首相の銃撃事件によって統一教会問題が改めて注目されたとき、なぜ「宗教2世支援」の議論がゼロから始まるかのように見えたのか。本書を読んで、その理由の一端が少し見えた気がした。

サッカーと地政学

自分は長年、野球が大好きだった。

中日ドラゴンズの筋金入りのファンで、昭和の「野武士軍団」と呼ばれた時代から、星野仙一監督の激情、落合博満監督の冷徹な采配まで、毎年戦力分析をし、雑誌を買い漁るほど野球に没頭していた。30歳になるまで、スポーツとは野球のことだと半ば思い込んでいたかもしれない。

だが野球はワールドベースボールクラシック(WBC)で「世界」と言っても、その舞台はほんの一部の国に限られている。サッカーを知ると、その事実に改めて気づかされる。文字通り、地球全体が舞台だ。 本書『サッカーと地政学』(木崎伸也著、ワニブックス)を読んで、その「ちがい」の意味の深さを、改めて突きつけられた気がした。


本書の概要

著者の木崎伸也氏は、2002年の日韓W杯後にオランダ、その後ドイツへ移り住み、ブンデスリーガを現地取材してきたスポーツライターだ。『Number』や『footballista』にも寄稿し、サッカーの「現場」を知り尽くした書き手である。サッカーが好きでYouTubeを見ている人なら誰でも知っていると思うし、その語り口はいつも理路整然としていて、かつ非常にわかりやすく、素晴らしいライターだなぁと思っていた。

本書は全5章から成り、サッカーという競技を「地政学」というレンズで読み解く。

  • 第1章:日本代表と地政学
  • 第2章:W杯と地政学
  • 第3章:ナショナルチームと地政学
  • 第4章:スター選手・英雄と地政学
  • 第5章:サッカーマネーと地政学

「なぜ日本は急激に強くなったのか」「なぜ特定の国でスターが生まれるのか」「なぜW杯は政治を揺らすのか」——そうした問いに対し、国家の思惑、経済構造、移民政策、人材育成の論理を絡めながら答えていく。


「坂の上の雲」としての日本サッカー30年史

読んでいて、ある小説が頭に浮かんだ。司馬遼太郎の『坂の上の雲』だ。

明治の日本が、無謀とも言える目標に向かって懸命に走っていく物語。あの「上昇の物語」と、この30年の日本サッカーの歩みが、どこか重なって見えた。

Jリーグが誕生した1993年から今日まで、日本は確かに「坂を上り続けた」。ドーハの悲劇から、ジョホールバルの歓喜へ。2002年のベスト16から、2022年のドイツ・スペイン撃破へ。その軌跡には、単なるスポーツの成長以上のものがある。

本書が示すのは、その成長の背景に「見えない力」が絡み合っていたという事実だ。選手の育成システム、海外リーグへの人材輸出、代表チームへの国家のブランド戦略——これらがすべて地政学的文脈の中で動いている。

そして今、長友佑都のような「いぶし銀」の選手が現れ始めていることが、日本サッカーに本当の厚みをもたらしていると感じる。かつての野球における「ベテランの味」に近い、その重厚さが、日本サッカーにも根付いてきた。


サッカーは「代理戦争」である

本書を読んで最も腑に落ちたのは、サッカーが「代理戦争」と呼ばれることへの理解だ。

W杯を見ながら各国の文化や歴史を感じ取れるのは、試合の背後に国家の誇り、怨念、野望が凝縮されているからだと、本書は丁寧に説明してくれる。イングランド対アルゼンチン、フランス対北アフリカ系移民の問題、そしてモロッコが国家の威信をかけて「サッカーで領土拡大を図る」という視点——これらはただの「試合の話」ではない。

ピッチ上のボールの動きが、そのまま国際社会のパワーバランスの動きと連動している。そのことを知ってからワールドカップを見ると、確かに「もう一枚深い」世界が見えてくる。


オイルマネーと「スポーツウォッシング」の現実

第5章のサッカーマネーをめぐる話は、特に刺激的だった。 中東諸国が莫大なオイルマネーをサッカーに注ぎ込む理由。それは単なる娯楽への投資ではない。国家イメージの洗浄——「スポーツウォッシング」と呼ばれる戦略だ。

「物を言うのは金だ」という至極当然の現実を、サッカーという窓を通して見ると、その構造が非常にクリアに見えてくる。サウジアラビアがネイマール、ベンゼマ、ロナウドを次々と獲得したこと。カタールがW杯を誘致したこと。これらは偶然の事象ではなく、綿密に計算された国家戦略の一部だ。

そしてその陰に、FIFAの腐敗と癒着が存在することも、本書は正直に書いている。しかしそれが世界にサッカーを広めるという側面においては必ずしも負の側面ではないということが面白い。 本書は地政学の入門書として読んでも面白いし、2026年W杯(アメリカ・カナダ・メキシコ共催)を前に、世界の「力学」を理解する副読本としても最適だと思う。

最近毎日聴いているポッドキャスト_書評_物語思考

とあるきっかけで「けんすう」氏のポッドキャストを聴き始め、その明快で痛快、そして知的好奇心を刺激される質問の受け答えに、あっという間に虜になってしまった。毎朝数キロのランニングをする時にこのPodCastをきくのが何よりの楽しみかつ癒やしになって(しまって?)いる。


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複数のシリーズがある氏のポッドキャストはどれも圧倒的に面白く、毎日ランニングしながら聴くのが日課となっている。これが無料で聴けてしまうのが本当に有り難い。インターネットの良心であるとさえ思ってしまう。語りはは非常に客観的で役立つものが多く、認知行動療法の知識がある(のかな?)からか、物事を客観的に捉え、感情や認知を切り分ける作業がとても自然で、そのスマートさに感銘を受けていた。

そんな「けんすう」氏が上梓したのが、この『物語思考』という本である。ポッドキャストで感じていた彼の「自己を客観的に見る視点」が、どのような思考経路から生まれてくるのかを知ることができた点で、非常にためになる一冊であった。

この本の素晴らしい点は、その内容の深さにもかかわらず、文章が非常に分かりやすいことである。頭の良い人が難しい言葉を使わないというのは、まさにこのことだと実感した。高密度の知的な内容を保ちながらも、読み手の認知負荷を抑えた伝達が可能であるということを、この本は体現している。けんすう氏の魅力である「明快な問いと認知の整理」というメカニズムが、この本を通じてより深く理解できた。そして物語(ナラティブ)とは自分を取り巻く環境を客観的に捉える最善の手法なんだろうと思った。そして物語とはどこか精神力動学とも通じるのかもしれない。

正直なところ、けんすう氏が私よりも一回り年下だと知った時は、少しひがみっぽい気持ちになったのも事実である。「自分は無駄に年を取ってしまった」「こんなスマートな人物になりたかった」と、自分のこれまでの人生を振り返ってしまった。 しかし、彼のコンテンツに触れ続けることで、単なる憧れや劣等感で終わらせるのではなく、そこから学びを得ようという気持ちに変わっていった。

けんすう氏はこれからも様々な本を執筆するとのことなので、新刊が出るたびに手に取っていこうと考えている。このような質の高いコンテンツに日本語でアクセスできる環境にいることは、本当に恵まれていると感じる。

ちなみに、このブログの文章は、PlaudNoteの音声入力で作成してみた。新しい試みであったが、なかなかうまくいったように思う。これからも 音声入力のような新しいツールを積極的に試しながらやっていこう。こういうことをやるのはやっぱり楽しいですな

夢中になって読んでいる漫画_バーサス

最近の漫画の進化には、率直に言って驚かされる。自分は手塚治虫や藤子不二雄世代なのだから仕方がないとは思うけれど。もはや「映画を超えているのではないか」と感じる瞬間すらある。少なくとも、映画とは異なる次元で、人間の想像力をより強く刺激しているのは確かだ。 映画が連続した映像で世界を提示するのに対し、漫画は一コマ一コマの「間」や余白、そして静止した空間そのものが、読み手の内側で動き出す。この自由度の高さこそが、漫画ならではの強みなのだと思う。

本作はYouTubeで盛んに推薦されており、その評判に背中を押されて手に取った。 まず圧倒されたのは、絵の表現力とコマ割りの独創性だ。いわゆる戦闘漫画に分類される作品ではあるが、敵と味方の境界は極めて曖昧で、物語は終始、混沌の只中を突き進んでいく。その混乱自体が、この作品の魅力になっている。

展開のスピード感も凄い。ページをめくる手が止まらず、読者に息をつく暇を与えない。

少し前に夢中になっていた『フリーレン』が、静けさや余韻で心に染み入る作品だとすれば、本作は真逆だ。読んでいるうちに、アドレナリンが分泌されていくのをはっきりと自覚するような、純度の高い刺激に満ちている。

かつて「漫画だからこそできる表現」という言葉があったが、今はその枠組み自体が意味を失いつつあるように感じる。漫画は、映画や他のメディアとの比較対象ではなく、独立した表現の到達点として進化し続けているのだろう。

精神科病院に入院していました

『精神科病院に入院していました』は、統合失調症を患い、精神科単科病院の閉鎖病棟に入院した作者によるノンフィクション漫画。 作中では、 とあるうつの患者が「退院したくない、病院はあまりにも居心地が良すぎる」と語る場面があった。こんな病院はさぞかしよい病院なんだろうな。

本作の素晴らしさは、作者が自分自身を冷静に客観視している点にある。また、周囲の患者や医療従事者を含め、誰一人として「悪者」にしない描写にも、作者の温かい人柄が表れている。基本的に他者に感謝する姿勢が貫かれており、きっと多くの愛情を受けて育ってきた人物なのだろう。平和で癒やされる絵柄も相まって、精神科の入院治療を描いた闘病記でありながら、読者に過度な負担をかけず、さらっと読める点においても秀逸だった。

精神科病棟で働く自分にとってもちょっと勇気をもらえた作品となった。

加害者家族の苦悩と現実:Netflixドラマの真実

youtu.be

yoshitaka.hatenablog.jp

書籍で紹介されていたことがきっかけで、このNetflixドラマを観た。最初はサスペンス作品だと思っていたが、実際にはまったく違った。そこに描かれていたのは、加害者家族が直面する現実――いわば加害者家族臨床の核心だった。

観ていて気持ちが沈む場面も多い。それでも「観てよかった」と思う。もし自分がこの家族と同じ立場に置かれたら、生きていけるだろうか。犯行現場の映像を直視できるだろうか。そんな問いが頭の中を巡り続け、物語に没入しきれない時間もあった。それほどまでに、観る者を当事者の位置に引き寄せる作品だった。

加害者家族に向けられる世間の厳しい視線も強く印象に残る。これは日本特有の現象ではなく、世界共通の反応なのだと感じた。欧米では「親は親、子どもは子ども」とより切り分けて捉えるのではないかとどこかで思っていたが、実際にはそう単純ではない。文化が違っても、人が抱く感情や反応には大きな差はないのかもしれない――そんな気づきがあった。

加害者臨床は、自分にとっても避けて通れないテーマだ。この作品を通して、当事者や家族の苦悩にどのように関わり、何ができるのかを改めて考えさせられた。約4時間の視聴体験は、単なる娯楽ではなく、自分の臨床姿勢を問い直す時間でもあった。

世界の大転換

自分が生きて来た50年以上の時の流れの中で、人生観に決定的な変容を迫られた出来事が三つある。それは「コロナ禍」「東日本大震災」、そして「ロシア・ウクライナ戦争」だ。特にロシア・ウクライナ戦争は、世界の秩序というか、これまで信じてきたもの――あるいは自分が信じたいと願っていた常識なのかもしれないが――が崩れ去った瞬間だった。

とはいえ、振り返ってみれば、その前にも同様に衝撃的な出来事はいくつもあった。オウム事件アメリ同時多発テロ、さらには自分が生まれた頃の浅間山荘事件。ベルリンの壁崩壊や天安門事件もそうだ。思いつくだけでもこれだけあるのだから、人間というのは、自分に近しい出来事や最近の出来事ほど強烈に記憶に刻み込まれる性質があるのだろう。特に自分はそういうところがあるのかもしれない。s

本書は、中国、ロシア、アメリカ、ヨーロッパ、安全保障など各分野の専門家が、小泉悠氏と語り合う対談集である。対談形式ということもあり非常に読みやすく、世界情勢にそれほど詳しくない自分でも気軽に読むことができた。そういう意味で、自分のような読者にとってありがたい一冊だと感じる。

それにしても、世界の首脳というのは実に個性豊かだ。日本はどこかキャラクター面で見劣りしているようにも思える。それが日本らしさ、あるいは強みなのかもしれないが。