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ひびのいろいろ

勇気をもう一度与えてくれた本「知的生産の技術とセンス ~知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術~ 」

「知的生産の技術」というバイブルは自分にとってはあまりにも敷居が高かった

梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)先生の著作である「知的生産の技術」は何十年か前に読んだ記憶がある。僕のぼんやりとした頭ではその内容はほとんど頭に入っていなかった。今再び読み込んでもそんなに印象は変わらないかもしれない。 今回読んだこの書籍は「知的生産の技術」の現代訳まではいかないまでも入り口としての紹介をしてくれるものだと思う。自分のような頭でも分かり易く、その内容がすんなりと入る。『ちょっと知的生産って格好いいよな』という想いに浸れる本だ。

そして何よりも自分も何かをやってみよう!。今やっていることを続けてみようと勇気を与えてくれる。

誰にでも「知的生産」が可能になった時代。

色々な技術の発達によって数十年前と比較して「知的生産」に関するハードルは大きく下がった。電子機器の発達や、クラウドサービスを中心としたWebの発達は想像も出来ないぐらいの出来事だ。

こういった発展した技術を扱う時の心構えをこの本は教えてくれる。例えば以下の文章に表れている。

「知的生産の技術」は自ら情報を生み出し、価値を創造してゆく、という攻め手の技術であると同時に、現代においては情報の稚拙な扱いによる事故をふせぐ守りの技術であるとも言えるはずです (P29)

情報のフィルターとしてキュレーションという他者にに依存することは自らの知的生産のセンスを磨くことには必ずしも繋がらず、場合によってはそのフィルターを上手く機能させられなくなる危険性すらはらんでいる (P101)

Evernoteのように情報を蓄積するツールでは、そこに蓄積する情報量こそが重要だと思われがちですが、実際は「情報量」とそれを「組換え」て発見を促すことができる力のかけ算が最も重要なのです (P141)

簡単な表現でやり過ごすことをせずに、「私にとってこの出会いは何の意味があるのか?」という一人称の情報を繰り返して自分自身にフィードバックさせてゆくうちに、情報に対する感度は研ぎ澄まされていきます。 (P179)

細かいEvernoteなどの使い方などは書かれていないものの、どういった態度で日々情報を集めてゆけばいいのか?その心構えを改めて教えて頂いたような気がする。そういう意味で凄く有り難い書籍であった。

もう一度読み返してみよう

僕が昔 「知的生産の技術」がどうも自分の中で消化できなかった理由として、

『知的生産の技術』が版を重ね、一種の古典として扱われているのは「正解を与えていない」ことが大きな理由としてあげられます (P271)

ということがあったのだと思う。実際自分が何をして良いのか分からなかったのだ。 それと同時に

拠り所がしっかりしているか、そしてその拠り所に自分がしっかりと根を張っているか、という2点が、逆境に対する適応力の有無にかかわってくる (P259)

自分の立ち位置や、基礎となる土台となるものがなかったこともあるのかも知れない。年月が経ってもう一度「知的生産の技術」を読み返してみたら昔とは違う風景が見えるかもしれない。ちょっとだけ今なら自分に根が生えている気がするからだ。

そう、もういちど「知的生産の技術」を読み返してみよう。